未来までグルグル行進

東京で出会い、4年ぶりに電話で合流した2人。篠塚康介は福知山に。コスモオナンは福岡に。未来まで真っ直ぐ進める気がしない。グルグルして行進。それぞれの場所で何も気にしなくてよくなった2人が、思いのまま書きます!

10年前、現在、10年後(by篠塚康介)

福知山駅の近くのガストでハイボールを飲みながら、今書き始めた。三杯目である。ガストに来る前に餃子の王将でビールを一杯やってきたので、すこし酔ってきたところである。

 

昨日25歳になったというブログを書いて、20歳から25歳までがあっという間だと書いたが、その5年前の15歳の頃を考えると、10年って全然あっという間じゃなくて長い気がしてきたのだ。

 

15歳の時は、中学を卒業して高校に入る年だ。西初石中学校を卒業して、開智高校に入った時だ。

高校受験で4人中俺だけ東葛飾高校に落ちて、開智高校という東岩槻にある高校に入学した。

 

それから3年間、俺は勉強を死ぬほどした。死ぬほどは盛っているかもしれないが、相当勉強をして、かなり成績がよかった。東大には落ちたが、早稲田には受かった。文学部、文化構想、教育学部に受かった。3年間勉強に費やしたけど、東大には受からなかった。東大はやはり難しかった。でも早稲田に受かって俺の親はすごく喜んでくれた。中国では早稲田はすごい大学とされているので、中国出身の母はすごく嬉しかったと思う。

 

早稲田に入って、風俗ブログを書いて、大学に通報されて、ベーシックインカムシネマズ1人目の受給者に選ばれて人生が急変した。

 

俺が20歳の時に池内慶が株式会社ベーシックインカムを作っていなかったら、今頃全く違う人生だったはずだ。もしものことを考えても仕方がない。俺はベーシックインカムシネマズと関わる運命にあったんだと思う。

 

1人目の受給者の俺が、今はベーシックインカム社で働いている。今、25歳。現在俺は福知山のデカい家でベーシックインカムシネマズをやっている。

 

さぁ、10年後の話をしよう。35歳だ。人生中間点。一体俺は何をやっているだろうか。10年は思ったより長い。全く違うことをやっている可能性もちょっとはあるけど、ベーシックインカムをやっていると思う。池内慶についていってるだろう。池内慶とは一連托生だ。

 

結婚しているだろうか。子供がいるだろうか。いいパパになりたい。いい夫にも。なれるだろうか。

 

どこに住んでいるだろうか。流山に住んでいて欲しい。福知山にはさすがにいないだろう。

 

このブログは続いているだろうか。続いてたらいいな。ちゃんまりが更新しなくなっても、俺1人だけでも未来までグルグル行進していたいな。

 

今の友達とはまだ仲良いだろうか。新しい友達はできるだろうか。そりゃできるか。今の友達ともうまく続いていたらいいな。あぁ未来が楽しみだ。

 

人生色々経験してきた気がするけど、まだまだこれからもっと色んなことがあるんだと思う。

何が起きても楽しんでやろうと思う。またつらいこともあるだろう。また病気が再発してしまう可能性だってある。何が起きるか人生はわからない。でもいつだって希望をもって、前向きに人生を歩んでいくことが大切だと思う。どんな人生を歩むことになっても笑って生きていきたい。笑い尽くして死んでいきたい。そんなことを思うのは今酔っ払っているからだろうか。今四杯目のハイボールを注文した。ハッピーアワーで250円である。安い。

 

いい未来を掴むために、今を懸命に生きよう。今を大切にしよう。一緒にいてくれる友達を大切にしよう。大丈夫だ、未来は明るいはず。

 

 

 

25歳になった(by篠塚康介)

昨日、25歳になった。アラサーだ。実感はない。ついこないだまで20歳だった気がする。人生は本当にあっという間だ。

 

20歳の誕生日は台湾にいた。台湾師範大学というところに3週間くらい語学研修に行っていて、そこで20歳を迎えた。みんなが祝ってくれたのを覚えている。

 

25歳の誕生日は、福知山で迎えた。ベーシックインカム代表の慶さんの家だ。慶さんは今東京に撮影に行っていて、俺は一人ぼっちで25歳の誕生日を過ごすことになった。寂しい誕生日だ。

 

仕事を終えて、フレッシュバザール(スーパー)に行って、本搾りのピンクグレープフルーツを買って、飲みながらたけちゃんと電話した。

 

たけちゃんはグループホームのスタッフで、すごくお世話になった人だ。人生の恩人だと言っても過言ではない。

 

2022年12月に初石病院を退院してから、2024年1月末に福知山に移住するまで、お世話になった人だ。

 

たけちゃんは、料理がうまくて、話が面白くて、パチンコが好きで、漢気がある今年60歳になる人だ。

 

いつも料理を作ってくれて、スクランブルエッグ、豚キムチ、すた丼、生姜焼き、もつ煮込みをよく食べた。他にもあったと思う。スクランブルエッグは絶品だった。

 

よくサイゼリヤや、じへどんという中華料理屋さんで一緒に飲んだ。たけちゃんはプレモルの青いやつ(香るエール)が好きで、じへどんはそれだったから、喜んでいた。

 

退院したばかりの時はお金が全くなかったので、服も買ってもらって、ご飯もたくさんご馳走になった。本当にありがたい。

 

グループホームの住人でとても仲良かった人がいる。小野さんだ。

 

今年52歳になる小野さんは、いつも昼飯を報告してくる。デイケアに通っているから、昼飯をタダで食える、俺もしばらくデイケアに通っていた。

 

小野さんとはグループホームの近くのファミリーマートでいつも缶ビールを買って、近くの小さな公園で一緒に飲んだ。

 

誕生日プレゼントに本搾りのピンクグレープフルーツを買ってくれたそうだが、まだ届かない。お金にそんなに余裕がないはずなのに、ありがたい。たけちゃんも半分お金を出してくれているらしい。感謝です。

 

ママも(ママって今でも言ってるの恥ずかしいけど、仕方がない)誕生日おめでとうというラインをくれた。

 

ママとはこないだ電話をした。ママ宛のソフトバンクからの郵便物がグループホームに届いていたので、どうしてそうなっているのかを聞きたくて電話をしたのだ。

 

1月末に福知山に来たことをママには言っていなかったので、びっくりしていたし、「大丈夫なの!?」と心配された。俺はこっちでちゃんとやっているし、薬も毎日飲んでるし、メンタルクリニックにも通っていると伝えると安心していた。

 

ママは今Amazonの倉庫で働いているが、どこかの会社で正社員になる話がきているらしい。(すごい!)

 

ママには本当に辛い思いをさせた。早稲田入って、AV男優だなんて親にとっては辛すぎるだろうし、その後双極性障害になって、大学を中退したのは本当に申し訳ないと思っている。

 

高い学費を出してくれた(高校も私立)のに、大学を卒業できなかったのは、ママを悲しませてしまったと思う。

 

俺としては大学を中退しても全く問題はなかったから、いいのだけど、親からしたら心配になると思う。

 

ママは今度京都に遊びにきたいと言っていた。美味しいご飯をご馳走してあげたいと思う。実家にも泊まっていいと言われた。出禁じゃなかった。次流山いくときは、実家に泊まろうと思う。ママの豚キムチが食べたい。唐揚げもハンバーグも食べたい。

 

25歳になる前日はちゃんまりと電話していた。このブログの共同執筆者のちゃんまりだ。

ちゃんまりと話してると、すごく楽しい気分になる。てかちゃんまり面白すぎる。話も合うし、ちゃんまりとはこれから先も長い付き合いになりそうだ。謎にスペースもやった。今度はちゃんと告知してスペースで語りたい。ちゃんまり、よろしく!これからも一緒に意味不明な人生を歩んでいこう、そして文化人になろう。年内には福岡に行って、ちゃんまりと唐揚げを食う約束をしている。福岡の唐揚げ、実に楽しみである。もつ鍋も食べたい。

 

たくさんの人と一緒に生きている。ここには書かなかったけど、大切な人が思ったよりいるみたいだ。俺は1人じゃない。誕生日のブログだからくさいことを書いてしまうけど、俺には人生を一緒に歩んでいく仲間がいる。もうダメかと何度もおもったけど、全然そんなことなかった。生きてさえいれば、何度だってやり直せるし、楽しい人生を送ることができる。だから、諦めちゃダメだ。一度きりの人生を諦めちゃダメだ。諦めなければ、道は開けるし、一緒に生きていく仲間ができる。そうすれば、人生はなんとかなる。生きててよかったと思える夜がやってくる。だから、一緒にやっていきましょう。俺たちはファミリーだ。

 

 

 

 

 

 

親父のこと(by篠塚康介)

いつからだろう。“おやじ”と呼ぶようになったのは。多分一年前くらいなのだが、どうして“おやじ”と呼ぶようになったかを全く思い出せない。一体俺に何があったんだ。

 

逆に母親のことは“おふくろ”だなんて言えないし、恥ずかしいことだが、今でも呼ぶ時は“ママ”としか呼べない。“ママ”と呼ばなくなるタイミングを逃してしまったのだ。“おふくろ”って呼んでる友達はまだ見たことがないので、大丈夫だが、”ママ”と呼んでる友達はいないだろう。

 

あと、ママに親父のことを呼ぶ時はパパと呼んでしまう。あぁ恥ずかしい。みんなどうして母さんとか父さんて呼べるんだよ。俺はどこで間違えたんだよ。

 

俺が母親のことを“おふくろ”と呼ぶようになるときはくるのだろうか。友達が“おふくろ”と呼ぶようなったら俺もそれに合わせよう。

 

まあそれはおいておいて。

 

今日はタイトルにもある通り親父のことを思い出してみようと思う。

 

いや、決して死んだわけではない。ちゃんと流山(初石)で生存している。

 

でも“思い出す”という表現が正しいと思う。

 

ちゃんまりとLINEしていたときに、親父の話になったから親父のことを書いてみたくなったのだ。

 

親父は足が悪くて、今は週3か週5でウエルリーフというリハビリをする場所に通っている。

 

足が悪いのは、脳梗塞の後遺症だったはずだ。

 

なんとなく父親のことを書きたくなったので、箇条書きで思い出せることを書いてみる。

 

・毎日タバコを一箱くらい吸っていた。確か銘柄はメビウス(水色のやつ)で、給料日になるとカートンで買っていた。家の中で普通に吸っていた。

 

・毎日のどごしを一本飲んでいた。発泡酒だ。ビールを飲むのではなく、発泡酒だった。

 

・料理が上手だった。元々自衛隊にいて、そこで料理を覚えたと言っていた気がする。自衛隊を辞めた後は、レストランで一時期働いていたそうだ。

 

・卵焼きがめちゃくちゃ美味しかった。オムライスのオムの部分にケチャップとマヨネーズをかけて、いつも食べていた。俺たちはそれを“フワトロ”と呼んでいた。マジで美味しかった。

 

・給料日近くになると、俺にたまにお金を借りて、給料日に暴利で返してくれた。めちゃくちゃ嬉しかった。

 

・ギャンブルでやらかして、一回ママ(ママって呼んだっていいだろ)と離婚した。その間はレオパレスに住んでいて、たまに遊びに行った。何年後かに再婚した。

 

・競馬が好きで、よく浅草に2人で行った。競馬は全然興味わかなかったけれど、帰りに買う唐揚げが美味しかったから、それで充分だった。

 

・エロ本やアダルトビデオを保有していて(引き出しにしまっていて)友達を呼んで一緒に見ていた。

 

・印刷会社で働いていた。どんな仕事をしていたかは知らないけど、制服がかなり汚れていて、大変な仕事だったんだと思う。

 

・お金をいつも机の上に並べていた。ギザ10を集めたり、謎に硬貨ガチ勢だった。

 

・宝くじの研究をしていた。ノートに当たりの数字を書きならべて、次の当たりをいつも予想していたが、当たっているのを見たことはない。

 

双極性障害になった。俺も重い病気だが(全く同じ病気です、遺伝ですね)、親父も結構重かった。俺もママもすごくつらい思いをした。高校生のときだった。ママはいつも泣いていた気がする。

 

・早稲田に受かった時、めちゃくちゃ喜んでくれた。というか高校時代模試の成績を見せるたびにめちゃくちゃ喜んでくれた。自慢の息子になりたくて勉強を頑張っていたという節もあるので、嬉しかった。

 

こんなところだろうか。他にもあった気がするが(いや絶対ないわけないのだが)、思い出すのに疲れてしまった。

 

すごいどうでもいいことを書いたが、なんとなく書いてみたかったのだから仕方がない。

 

親父はiPadを使っていて、もしかすると俺のTwitterを見ているかもしれないので、この記事が読まれるかもしれない。まあ別に問題ない。

 

ちなみに今は餃子の王将で生ビールを飲みながら書いている。

 

もうすぐ二杯目のビールが飲み終わるので、50分かけて歩いて帰ります。

 

次、流山に帰ったら、親父に会いに行こう。一緒にタバコを吸って、発泡酒を飲もう。

 

 

 

 

饅頭ひとつ。いつまで無駄にカッコつけてみるか(byコスモオナン)

この共同ブログ、まだ続いていることが地味に嬉しい。

 

話は変わって、いま私は福岡のデパートの地下で回転焼きを食べている。

 

中身は白あんだ。今まで生きてきて、見た目の問題だけで黒あんのみを食べてきた。黒あんを食べ続けている人間って、ハードボイルドな感じがしたんです。そういうこだわりが、カッコいいと思っていた。よく旅人がウイスキーを小ちゃい水筒に入れてるやつ、あるじゃないですか。スキットルか。黒あんは、そういう位置付けだった。

 

長年の積み重ねが、ほんのちょっとのタイミングで崩れる時が人生にはある。

 

人気店なので行列に並んで、順番が回ってきて急かされるようにぽんとレジで指差した写真が「白あん」であった。しまった!と思った時には、すでに袋にくるまれた饅頭が目の前に差し出された。

 

地道に積み上げてきたハードボイルド黒あんプライドが、砂の城のように崩れていくのを感じながら、お会計を済ませた。

 

すぐ家に帰ればいいものの、なんかひとつ肩書きを失った気分だったのでデパートのベンチに座り込んで、持参した水筒で熱々のコーン茶で口を潤した。ウイスキーの味はしない。

 

饅頭を取り出し、白あんか…という軽くバカにしている気持ちで割って食べたら美味い。普通に美味い。わたしは何に対して今までカッコつけていたのか分からなくなった。これからは白あんと黒あんに囲まれて、仲良く生きて行きたいと思う。

 

まだまだ自分の中に、こういう無駄とも思える「カッコつけ」が無数にある。またそのカッコつけが出てきたら、このブログでご紹介します。

地図さえない それもまた人生(by篠塚康介)

ちゃんまりの更新を待たずして、ブログを書きます。この共同ブログは自由なので、順番なんてないのです。僕が10個書いて、ちゃんまりが1個書くペースでも問題ないのです。

 

2022年9月〜12月、僕は措置入院をしていた。千葉県知事からの命令?で入院するという1番重い入院である。

 

入院中に、週一回1時間CDで音楽を聴ける日があって(確か水曜日だった)、僕は美空ひばりの『川の流れのように』をよく聴いていた。

 

一回号泣してしまい、看護師に大丈夫かと心配された。それくらいこの歌は当時の僕に突き刺さった。

 

地図さえない、それもまた人生

 

本当にその通りだ。僕の人生には地図がない。2019年にレールから外れ、よくわからない人生を送ることになった。

 

風俗ブログをきっかけに大学に呼び出され、それがTwitterでバズり、ベーシックインカムシネマズ1人目の受給者に選ばれ毎月20万円もらうようになり、親にAV男優になりたいというのをTwitterライブ配信

 

そのあと京大卒のWとメンズエステを作ることになり、エロのメディアも作り、そして早稲田王に出て、そのあとAVデビューした。

 

毎日が目まぐるしく、もうあの頃に躁鬱を発症していたんだと思う。というか大学2年(2018年)の頃には躁鬱気味だった。

 

とにかく躁状態だったからこそ、たくさんの人に会い、イベントを開き、AVにも出演できたんだと思う。

 

2020年になり、会社を廃業し(つらかった)、3月にはものすごく可愛い彼女ができた。

 

自慢の彼女で俺の友達は結構会ったことがあると思う。

 

コロナで緊急事態宣言が出て、仕事がなくなったので、彼女が僕の家にきて、最高な日々を送った。

 

7月、躁鬱を発症。鬱から始まった。

死にたくて死にたくて仕方がなかった。彼女が心配して、家まで来て(当時は野方で一人暮らしをしていた)、流山の実家まで連れて行ってもらった。本当に苦しかったし、彼女にもたくさん迷惑をかけた。

 

1週間入院して、退院してからはしばらくは落ち着いていたものの10月から躁気味に。

 

11月には完全におかしくなって、寝なくなり、妄想がひどくなり、詳しいことは書かないけど、異常行動をしまくって、強制入院。ここで彼女とは別れた。つらかった。

 

1ヶ月半入院して、退院したものの、またすぐに発症し、1ヶ月半また入院。

 

退院して、大学に復学したものの、朝起きられない(薬の副作用ってことにしたい)、授業についていけない、中退を決意した。

 

2021年6月大学を中退。

あんなに大学受験を頑張って、中退してしまったことは何より親に申し訳なかった。高い学費をたくさん出してもらって、それで中退。

 

その後、家を出て行けということになり、あんまり経緯は覚えていないけど、実家の近くに新しくできたグループホームに入居することになった。(障害者手帳を持ってる人が共同生活をするシェアハウスみたいなところです)

 

グループホームのスタッフとすごく仲が良くなり、色々お世話になった。本当に感謝している。

 

ケースワーカーに勧められたので、生活保護を申請した。すぐに審査は通って、生活保護を貰うことになった。

 

その後、2022年。6月から障害年金を貰うことになり、生活保護廃止。福知山に移住した。

 

9月に東京に行った時に、激しい躁状態になり、(薬を一才飲んでいなかった)さっき書いた通り、3ヶ月間措置入院。3ヶ月はあまりにも長く、苦しい日々だった。でもそれくらい病気が重かったので、仕方がない。

 

退院したあとはまたグループホームに。1年間ほど、グループホームで過ごしたあと、また福知山に移住してきた。

 

でこぼご道や、曲がりくねった道。

 

きっとこれからも人生苦しいことが待ってるかもしれない。でも、どんな困難もこんなん余裕って言って乗り越えていきたい。

生きることは旅すること、終わりのないこの道。

 

不思議な体験もたくさんしたし、めちゃくちゃ幸せな思いもしたし、死にたくなるほどつらいときもあって、人生ジェットコースターすぎるけど、この人生をこれからもなんとかやっていきたい。

なんとかやっていける気がしている。

 

ずっと『川の流れのように』を一曲リピートしてこのブログを書きました。

 

 

 

 

 

昨日食べた焼肉を覚えていないんです(by篠塚康介)

昨日すごく久しぶりにコスモに連絡をしてみた。Xでコスモが(ちゃんまりって呼んでるのでちゃんまりにします)、「篠塚康介くんのおかげで今がある」だなんて嬉しいことを言ってくれたので連絡せざるを得なかったのだ。

昨日は昼から白ワインを飲んで、パイナップル味のスト缶を飲んでだいぶ酔っ払っていて、気がついたらちゃんまりと電話をしていた。

 

久しぶりに話しているのに、まるで昨日も会ってましたみたいなテンポで二人とも喋るもんだから、なんだか嬉しい気持ちになった。

酔っ払っていたので変なことを言ってないか心配だが、そんな心配はしなくてもよい間柄だろう。(だよね?)

てか、共同ブログってなんやねんw

付き合いたての高校生カップルが共同ツイッターを設立して、別れたあとにアカウント名が使いませんになってるやつやんw

いつまで続くかわからないこの『未来までグルグル行進』

できる限り続けていきたいこの『未来までグルグル行進』

もう四年くらい文章を書いていないのでまずはリハビリです。

文章を書きたいという欲求は常々抱いていたので(かけよ)、まさかこんな形で文章を書けることになって嬉しいです。


ちゃんまりは2019年に出逢って一緒に色々して二人ともすごくつらい思いをして、それを一緒に乗り越えてきた戦友なので、今もこうして繋がっているのがなんだか嬉しいような、不思議な気分です。

いやぁ、本当お互いなんとか生きていてそれだけでもう充分です。

人生、もう嫌だと思ってしまうときも、消えてしまいたいと思うときも、死んでしまいたいときもあるけど、生きてたらやっぱりいいことあるし、人生はなんとかなると思う。
会いたい人、食べたいご飯、飲みたいお酒、好きな本、好きな映画、これだけで充分じゃないですか?

俺ももうダメだと思った時が何回もあるけど、周りの人に助けられて、人生なんとかなってます。

これ一体誰に向けて書いてるんだろうw

いいんだよ、書きたいことを書くんだよ。

とにかく俺が言いたいことは、なんとかならない人生なんてない!ってことです。

次はちゃんまりの人生論の記事になります。乞うご期待!


 

久しぶり!我が友よ!(byコスモオナン)

ご機嫌よう!

今日の昼、4年ぶりに電話をくれた友達がいた。

このブログを共同ではじめることになった、篠塚康介くんだ。

篠塚康介くんのことは、なぜだかフルネームで呼びたい。わたしの中で、必殺技のような楽しい人間だからだ。

先日、わたしが呟いたポストを見て連絡をくれたという。これはシャイな性格が邪魔して4年間ラインをする勇気がなく、感謝の気持ちが爆発しそうだったから投稿した内容だった。そこをぶち抜いて、電話をくれたので、笑いながら電話口で涙がポツンポツンと出た。

篠塚康介くんとの出会いは、4年前。東京で出会った。彼はまだ大学生で、中央線のOLであったわたしは大学に行ったことがなかったので、大学生の中にはこんなに元気な若者がいるのかと驚いた。喋るたびに脱皮をするようなオーラ。渋谷のカラオケ屋で、命が燃え尽きそうな歌い方をする彼を見て、心配になりつつ、ついて行きたいとまで思った。

そこから一緒に仕事をしたり、遊んだりしていて楽しくてたまらなかったんだが、次第にお互いに目がぐるぐる回る生活を送るようになり、気付いたら二人とも東京を離れていた。

彼もわたしも、文章を書くことが好きだし、繊細で心がすぐにドキドキするところも似ている気がする。つまり、男版の自分を見ているようなのだ。

ひとつの小さな人生の中で、自分と似ている人と出会える確率ってどのくらいなんだろう。いや、こんなロマンチックなことを今回書きたいわけでなかった。

 

とにかく、久しぶりに篠塚康介くんの文章が読みたいということで、共同のブログ開設をすることになった。次回のブログは、篠塚康介くんの番です。