いつからだろう。“おやじ”と呼ぶようになったのは。多分一年前くらいなのだが、どうして“おやじ”と呼ぶようになったかを全く思い出せない。一体俺に何があったんだ。
逆に母親のことは“おふくろ”だなんて言えないし、恥ずかしいことだが、今でも呼ぶ時は“ママ”としか呼べない。“ママ”と呼ばなくなるタイミングを逃してしまったのだ。“おふくろ”って呼んでる友達はまだ見たことがないので、大丈夫だが、”ママ”と呼んでる友達はいないだろう。
あと、ママに親父のことを呼ぶ時はパパと呼んでしまう。あぁ恥ずかしい。みんなどうして母さんとか父さんて呼べるんだよ。俺はどこで間違えたんだよ。
俺が母親のことを“おふくろ”と呼ぶようになるときはくるのだろうか。友達が“おふくろ”と呼ぶようなったら俺もそれに合わせよう。
まあそれはおいておいて。
今日はタイトルにもある通り親父のことを思い出してみようと思う。
いや、決して死んだわけではない。ちゃんと流山(初石)で生存している。
でも“思い出す”という表現が正しいと思う。
ちゃんまりとLINEしていたときに、親父の話になったから親父のことを書いてみたくなったのだ。
親父は足が悪くて、今は週3か週5でウエルリーフというリハビリをする場所に通っている。
足が悪いのは、脳梗塞の後遺症だったはずだ。
なんとなく父親のことを書きたくなったので、箇条書きで思い出せることを書いてみる。
・毎日タバコを一箱くらい吸っていた。確か銘柄はメビウス(水色のやつ)で、給料日になるとカートンで買っていた。家の中で普通に吸っていた。
・毎日のどごしを一本飲んでいた。発泡酒だ。ビールを飲むのではなく、発泡酒だった。
・料理が上手だった。元々自衛隊にいて、そこで料理を覚えたと言っていた気がする。自衛隊を辞めた後は、レストランで一時期働いていたそうだ。
・卵焼きがめちゃくちゃ美味しかった。オムライスのオムの部分にケチャップとマヨネーズをかけて、いつも食べていた。俺たちはそれを“フワトロ”と呼んでいた。マジで美味しかった。
・給料日近くになると、俺にたまにお金を借りて、給料日に暴利で返してくれた。めちゃくちゃ嬉しかった。
・ギャンブルでやらかして、一回ママ(ママって呼んだっていいだろ)と離婚した。その間はレオパレスに住んでいて、たまに遊びに行った。何年後かに再婚した。
・競馬が好きで、よく浅草に2人で行った。競馬は全然興味わかなかったけれど、帰りに買う唐揚げが美味しかったから、それで充分だった。
・エロ本やアダルトビデオを保有していて(引き出しにしまっていて)友達を呼んで一緒に見ていた。
・印刷会社で働いていた。どんな仕事をしていたかは知らないけど、制服がかなり汚れていて、大変な仕事だったんだと思う。
・お金をいつも机の上に並べていた。ギザ10を集めたり、謎に硬貨ガチ勢だった。
・宝くじの研究をしていた。ノートに当たりの数字を書きならべて、次の当たりをいつも予想していたが、当たっているのを見たことはない。
・双極性障害になった。俺も重い病気だが(全く同じ病気です、遺伝ですね)、親父も結構重かった。俺もママもすごくつらい思いをした。高校生のときだった。ママはいつも泣いていた気がする。
・早稲田に受かった時、めちゃくちゃ喜んでくれた。というか高校時代模試の成績を見せるたびにめちゃくちゃ喜んでくれた。自慢の息子になりたくて勉強を頑張っていたという節もあるので、嬉しかった。
こんなところだろうか。他にもあった気がするが(いや絶対ないわけないのだが)、思い出すのに疲れてしまった。
すごいどうでもいいことを書いたが、なんとなく書いてみたかったのだから仕方がない。
親父はiPadを使っていて、もしかすると俺のTwitterを見ているかもしれないので、この記事が読まれるかもしれない。まあ別に問題ない。
ちなみに今は餃子の王将で生ビールを飲みながら書いている。
もうすぐ二杯目のビールが飲み終わるので、50分かけて歩いて帰ります。
次、流山に帰ったら、親父に会いに行こう。一緒にタバコを吸って、発泡酒を飲もう。